2016年9月11日日曜日

鎖骨骨折(手術宣告)

時間外入口から中に入ると緊急外来と夜間受付と云う小さな窓口があった。
取り敢えず夜間受付を覗き込んで
「すいませ~ん」
と声をかけるとな中から事務員さんぽい方がでてきた。
「はい どうされました。」
「あっ! あの~ 自転車で転んで肩が痛むので診てもらいたいのですが」
「あ~ 今日は内科の先生しかいないのですが良いですか」
「・・・」
「外科でしたらセンターの電話番号教えるからそこでの外科の受け付けのある病院探してもらってください。」
やはりここでも自分でやらないといけないのかぁ
「内科の先生で診てもらえますでしょうか」
「はい少々お待ち下さ~い」
「保険証お持ちですか」
「持ってません」
「それではこれにご記入ください。」
右利きの私は当然右手で字を書くわけだが肘と手首は動いたのでかろうじて自分の名前や住所を書くことができた。
その後、処置室の前までとおされ
「お名前呼ばれるまでここでお待ちください。」
人っ子一人いなく無駄にだだっ広く薄暗い場所でベンチシートに座って息子と二人で待っていると名前を呼ばれた。
息子をまたして一人で中に入ると医師と看護婦さんがいた。
「どうされました。」
私は一通り説明し状態を見てもらうと
「私は内科担当なので処置はできませんが、レントゲンを取りましょう。」
と言われ息子を待たしているベンチシートに向かい息子に
「レントゲン撮ってくれるって」
と、声をかけ待った。
すると看護婦さんが来てレントゲン室まで案内された。
入口には放射線受付と書かれておりこれまただだっ広いレントゲン室で中央にX線装置と思われる機械が鎮座していた。私をそこに立たされなんか別の部屋からマイクで体の向きを指示され、数枚の写真を撮られた。
「はい終了です。外で待っていてください。」
レントゲン室をでてベンチシートで待っていると程なく呼ばれ再び処置室に入っていった。


私が椅子に座るや否や開口一番
「いやー 折れてるねぇ~」
聞きたくなかったこの言葉 自分でも心拍数が上がって行くのが分かった。
先生の言葉が続く
「私は内科医だけど、これは手術が必要です。」
さらに聞きたくない単語に血の気が引いて行くのがわかった。
今までの人生で骨折はもちろん手術なんてしたこともない。
「手術ですか」
すると先生はレントゲン写真を私に見せながら
「ここが鎖骨ね、ここで斜めに折れてさらに折れたこの先の部分がまた折れているでしょう。」
「これが第三骨片って云うんだけどね」
「これがあるとだいたい手術が必要なんです。」
「はぁ」
「えーと明日は日曜日で病院お休みだから月曜日に来てもらえば手術できるように外科の先生に頼んどいてあげるけど」
「どんな手術なんですか」
「このくらいのプレートをいれてボルトで固定します。」
と状況を整理できず困惑している私を見かねて言ったのかを定かでないが
「ご自宅も遠いようだしお近くの病院でみてもらってもよいので」
と先生は看護婦さんに何やら指示しながら、
「クラビクルバンドと言う鎖骨骨折用のサポーターの様なものがあるので出しておきます。」
「クラックラッククバンド?」←心の声
看護婦さんが何やらタスキの様なものを持ってきた。
「これで鎖骨に力がかからないように固定します。後ろ向いてください。」
と言われ先生に背中を見せると着ていたTシャツの上から何やらベルトの様な帯状のものを両肩から脇に通され背中でぐいぐいしめつけるようにしながら
「胸張れる?」
と言われ姿勢を起こしていくと不思議と痛みが和らいだ。
そして三角巾で右腕を固定してくれた。
「左手の怪我処置しておきます。」
看護婦さんに指の消毒とガーゼで保護してもらい終了


息子の待っている所へ戻って息子の前に立つと息子は目を丸くして私を見ていた。
「骨折れたて、でもこれしてもらったら大分楽になったよ」
そして再び最初に行った窓口に行くと
保険証が無いので清算できないらしく次回清算するので取り敢えず1万円お支払できますかと言われたので支払った。
差分は保険証を持ってきて返してくれるらしい。


病院を出た私はどうやって帰ろうか少し悩んだ。
息子は明日自転車を使いたい用があるらしく一人でも自転車で帰ると言っている。
私は息子を一人で帰す事に抵抗を感じていた。自分がこの様な事になったせいもあってかもし息子が途中で事故にでもあったらと思うと絶対できないと思った。
しかし息子は「大丈夫だよ道も判るし一人で帰れる」と一点張り
しばらく押し問答が続く
冷静に考えれば私が自転車で転んだからと言って息子も同じ目に遭うという事はない。むしろ私よりはるかに日常自転車を移動手段として利用している息子にとって自転車をここにおいて別の手段で帰る事の方が納得できないのは当然
そう思って別々に帰る事にした。
さて私はどうしよう。
病院の玄関先にタクシーと書かれた看板が立っていたが辺りは暗く当然タクシーは止まっていない。
クラビクルバンドの効果は絶大で右腕を動かさない限り痛みは殆ど感じなかった。


心身共にとても疲れてはいたが駅まで歩くことにあまり抵抗が無かったので電車で帰ることにした。


自転車はまたすぐ来るので特に断らなかったが病院の駐輪場に止めたまま病院を後にした。
息子は帰る気になればすぐにも私を離れ別行動を取れたと思うが駅まで歩く私に付き添ってくれた。


来た道を戻り先ほどお世話になった交番を超え駅に着いた私は切符を買いついてきた息子に声をかけた。
「大丈夫! 道ちゃんとわかる?」
「気を付けて帰るんだよ」
息子は「はいはい」と頷いて私が改札を超えるまで見送ってくれた。
ホームで電車をまった。
土曜の夜と言う事もあってか大分待たされた。


電車がホームに入ってきて止まり扉があくと中はガラガラで乗客は点々としていた。
私は誰も座っていない3人掛けのシートに座りため息をついた。


そして、頭の中をこの文字がずっと廻っていたのであった。


「手術」


2016年9月10日土曜日

無限小

無限小の一瞬の変化に気付き順応できる者は無限大の可能性を秘めている。

2016年9月6日火曜日

鎖骨骨折(病院に行こう)

土地勘の無い私ここから一番近い病院がどこにあるかわからなかった。
行きに来た道を思い返すと来る途中に交番があったことを思い出した。
そこまで行ってお巡りさんに助けてもらおうと思った。


文章では「助けてもらおう」と表現したが、この日は土曜日で日も暮れようとしている時間、病院と言っても救急外来を受け付けてくれるところでないといけないので交番で話を聞いてもらいあわよくばパトカーで病院まで乗せていってくれるのではないかと云う淡い期待を抱き取り敢えずそこまで何とか自力で行こうと決心したのである。


左手は薬指にティッシュを巻き付け、右手はジーパンのベルトに親指をかけた状態で腕が動かないようすれば普通に歩けることはできた。
問題は自転車
取り敢えずサドルにまたがり左手でハンドルをにぎる。
幸い指の痛みはそれほどなかった。
ブレーキもかけられる。(後輪ブレーキでよかった)
これなら漕げそうだと思った。


しかし今いる河川敷を出るには一旦土手を登り長いスロープを下って行かなければならない。
道幅も自転車が互いに1台ずつすれ違える程度の広さ途中対向車がきたら安全に交わす自信はなかったので、土手を超えるまでは自転車を牽いて歩くことにした。


片手でハンドルの中央を握り牽いて歩くことは意外と容易にできた。
そして土手から出た私は、殆ど交通の往来が無く民家もまばらな平坦な道をみて自転車に乗れそうと感じ再びサドルにまたがり自転車をこぎだした。


意外と安定して移動ができた。
むしろ歩くより肩に振動が伝わらないのではと感じた。
約500メートル程行くと幹線道路にでた。ここは夕方と言う事もあって交通量も激しい。
おまけに歩道があるとこや道幅が狭くなっていて歩道が無いとこもある。また段差を超える時に伝わる振動は今の私の肩には耐えられない。


「牽いて歩こう」


記憶では目的の交番はもうすぐと思っていたので(後で調べると300メートルであった)歩いてその交番に向かった。


日も完全に暮れ片側1車線の歩道も無い道、歩いて自転車を牽いている私の横を自動車や自転車、通行人がすれ違っていく、寂しく点々と光る街灯とすれ違いざまの自動車のヘッドライトの明かりだけが私を照らす。そんな道を右肩をかばいながら歩いた。


交番は駅前と言う事もありいきなり辺りが明るくなっていた。


「着いたぁーー」
と感じた


駅を横目に回り込む様な位置に交番はある。


交番の脇に自転車を置き、交番のガラス戸を開け交番に入った。


中には二人のお巡りさんがいた。


「すいません。自転車で転んで怪我したんですがこの近くに病院ありますか?」
と入口のカウンター越しにいたお巡りさんに声をかけた。
するとそのお巡りさんはカウンターの上に地図を載せて地図上の病院を指さしながら、
「この辺で大きな病院と言うとココかな~ 歩いて7~8分」
と教えてくれた。
私は内心やっとの思いでここまで辿り着きこれ以上自力で移動することはきついなーと思っていた。
そこで少しでも今の私の状態を知って欲しいとの思いからか転んだ時の状況や肩が動かせない事を説明すると
「それなら自分で救急車呼んで行った方が良いよ。」
甘かった!
餅は餅屋である。
私はそのお巡りさんから教えてもらった病院の名前は聞いた事があって、それなりに大きな病院であることを知っていた。
そこなら救急外来も受け付けてくれるだろう。
そう思ってもうひと踏ん張りと決意を固めたが、やはり自転車だけは邪魔だと思った。


「あのぉー 歩いて行くので自転車預かってもらっていいですか?」


尋ねた。


「あぁー 自転車なら駅前に駐輪場があるからそこに預けて行って」


言葉が無かった。




礼をして交番を出た私は再び自転車を牽いてお巡りさんが教えてくれた道を歩き始めた。
今の私にとってほんの少しの距離であっても辿り着いた道を戻るという事は精神的にも辛くなぜか自転車を牽いてでも先に進むことを選択したのであった。


道は少々上り坂で相変わらず道は狭く歩道はない、おまけに他に抜け道が無いせいなのか大型トラックがよく行き交う
車だけならまだ良いが、そこに自転車や歩行者が前からやってくると右肩をかばって歩いている私は交わしようが無い。
ただじっとして相手がやり過ごすのを待つのみとなる。
そうこうしてひたすら歩いて行くと急に道幅が広くなり息子が先回りして自転車で走って行き病院を見つけ戻ってきた。
その息子に追い付く頃、私にもその病院が見えてきた。あともうすこし、ちょうど丘の上に建つ病院
そこは大きな交差点で丁度横断歩道渡った向かいの角地一体が病院の敷地になっている。
結構大きな病院で建物自体まだ新しい綺麗な病院との印象を受けた。
「入口どこだぁ」
とつぶやきキョロキョロしていると息子が先に見つけ案内してくれた。
駐車場も広く門から受け付けのある入口まで50mm位はあった。


受け付け自体は閉まっていたが脇に目をやると救急外来の矢印がかかれた看板があったので
自転車を駐輪場に止めそこにむかった。


通常の洒落た受け付け玄関と違って物寂しい通路を通って救急外来の窓口に向かった。

2016年9月5日月曜日

鎖骨骨折(サイクリング)

皆さんは骨折の経験ありますか?
骨折と言ってもその症状は様々で、かるくヒビが入ったものから複雑骨折まであります。
私は4年前の9月22日に人生はじめての骨折を経験しました。
なぜ今頃
骨折した当時、それは全て人生初めて経験する事ばかりの連続で
「本当に治るのだろうか」
「今やるべきことは何なのか」
「この選択は間違ってはいないのか」
不安や後悔の日々をおくっておりました。
そんな中励まされた事の一つとして、同じ鎖骨骨折を経験された方々のブログがありました。
日々の経過を何日目、何日目と言う具合に綴られ自分の経過と重ね合わせ大変励みにさせて頂いた事は今でも忘れません。
本当は私自身もブログに残そうと思った時もあったのですが日頃日記を書くという習慣のない私は途中から書いても「しようがない」などと云うつまらん理由を付けて実行に移しておりませんでした。
今考えればその時の気持ちの変化を何かに書き留めておけば良かったと後悔しております。
既に4年も経ち今となっては記憶も曖昧ですが、結果的に鎖骨骨折の治療方法として自分が選択してきた道は間違えではなかったと思えるようになりましたので、そんな当時の私の心の葛藤を思い出せる範囲で書留めて置こうと思います。


その日は残暑も終わり朝から晴れ渡り休みの日はいつもゴロゴロしている私でもどこか行きたくなる様な一日のスタートでした。
ベランダの物置にもう何ヵ月もしまい込んでいた折り畳み式自転車
「天気も良いことだしサイクリングでもいくかぁ~~」
と、息子に声をかける。
日頃の移動手段はもっぱら自動車の私にとってあまり例のない一大決心であった。
目的地は家から10km程離れている河川敷
息子は過去に行った事があったらしくまた行きたいと思っていた場所
スマホの地図アプリを頼りに家を出た。
途中マックでバーガーを買って食べながら移動した。正確には覚えていないが15時頃についた。
到着した河川敷には野球やサッカーのグランドがあり少年たちの声で賑わっていてちょっとその先に目をやるとゴルフコースまでうかがえる広大な敷地
自転車であればサイクリングがてらぶらぶらと生い茂る緑、爽やか秋風が満喫できる場所です。
そこで一、二時間楽しみ。
帰りの道は行きとは別のルートがいいなぁ~


などと息子と一緒になって地図アプリで検索し

さー帰ろう


と河川敷を出る上り坂で、ペダルをおもいっきり踏み込んだところでバランスを崩した。

どの様に転んだかまったく判らずサイクリングコースの脇に転がった私は仰向けに天空を眺める格好になっていた。
頭を打った
打った瞬間頭がジーンと響き渡る様なあの感触をはっきりと感じていたので間違いない。
やばいかもっ、と思った瞬間左手薬指に激痛を感じた。

恐る恐る左肘を曲げ左手を自分顔の前あげると薬指爪脇から出血していた。

仰向けになったまま私は左手をかばう様にして腰を起こそうと右腕を地面につけようとした瞬間今度は右肩に違和感を感じた。

この感覚は過去に経験が無い。なんか思うように力が入らないというか何というか
でもなんとなくあまり動かさない方が良さそう いや動かすのが怖かったのかもしれない。
ちょと離れた場所にいた息子が私の異常に気付き近くに寄ってきた。息子に左腕を引っ張ってもらい腹筋をつかってお尻を地面に付けたまま起き上がった。

左腕は自由に動く。右腕は肘や手首は動き握力も普通にあるが手を肩から上にあげられない。

骨折の経験が無い私は、勝手に脱臼したかなと思った。(脱臼の経験も無いのだが)
しかし今一番痛いのは左薬指で 見ているとますます痛みが激しくなてきたが止血を試みた。
指を食わえては吸った血を吐いたりを繰り返して最終的には持っていたティッシュを患部にグルグル巻きにして右手で握り込む様にして、しばらく道端で胡坐をかき座り込んでいた。
(心臓より高い位置にした方が止血しやすい等と思いながら)

倒れた自転車を息子が起こしてくれ、その横に座り込む私を横目で見ながら野球少年たちが帰って行く
陽も大分傾き少し涼しい風が吹いたかと思うと尋常じゃない寒気が私の体を襲った。
小学生の頃プール嫌いでプールに入る前の消毒層に肩まで浸かって出た後に唇をムラサキにしてぞくぞく震えていた時の様な寒気である。

錯覚かもしれないがちょっと気が遠くなる様な目の前が少しホワイトアウトした様に見えた。
心配そうにしている息子としばらくその場所で留まっていると
左薬指の痛みが大分治まり出血も治まったようだったので右腕に力を入れず立ち上がろうとした時左肩に激痛が走った。
つまり右腕をぶらんぶらん状態にすることもできないのである。
仕方がないのでジーパンのベルトに右手の親指を引っ掛け腕が動かないようにしてやっと立つ事ができた。

「病院に行こう」

この時改めて右肩が普通では無いと自覚した。

2016年9月4日日曜日

日課

一日一回はありがとうと言われる何かをすべし。



できそうでできない事


最近、いつ言われたっけ・・・
いかんいかん

2016年9月3日土曜日

頑固者

いつも素直な頑固者でありたいと願う。



これは私が尊敬する人物がつぶやいた言葉だが、世の指導者に必要な資質なのではないでしょうか。
周りの意見を柔軟に取り入れ、己の意志にぶれがなく今与えられたことに対して的確に行動する。







2016年9月2日金曜日

2020年東京オリンピック

リオデジャネイロオリンピック(パラリンピック)が終わって次は2020年東京オリンピック
開会式が7月24日で閉会式が 8年9日ともう決まっているらしい。

何かと東京召致については物議を醸し出していると思うが、その中のひとつで開催時期が挙げられる。
ご存じの通り日本の夏は蒸し暑く天候の変化も著しく激しい。出場するアスリートはもちろん会場に足を運ぶ観客にとっても厳しい環境であることは言うまでもない。


一方1964年東京オリンピックの開会式は、いまでも体育の日として国民の休日となっている
ご存じ10月10日で
閉会式が10月24日です。
これは日本で体を動かすならこの季節と言わんばかりのとても良い季節に行われていた。

なのになぜ2020年の東京オリンピックは二か月以上も早いこのくそ暑い時期に設定されたのだろうか。


うむ ここにもお金の力が・・・
そう
「放映権」なんですね


でもなぜ1964年はOKだったのだろう。


調べてみると東京オリンピックの翌大会にあたる1968年メキシコシティオリンピックまでは第一回の1896年アテネオリンピックから春や秋に開催されていることが殆どでした。
しかしその翌大会の1972年のミュンヘンオリンピックから今年のリオデジャネイロオリンピックまでの13大会中1988年のソウルオリンピックと2000年のシドニーオリンピック を除き11大会すべてが夏に開催されております。
さらに1968年のメキシコシティオリンピック と1972年のミュンヘンオリンピックとでは放映権料が約倍に吊り上がっているではありませんか。


なぜだろう?



そこで日本国内の家電普及率の資料に目をやるとカラーテレビの普及率が1970年から1974年にかけてうなぎ登りになっております。

なるほど、

この1970年台前半から人々は茶の間でスポーツ観戦ができるようになり、その人口が増えるにつれて放送局もスポンサーからの広告費をより多く集められる様になったのだろう。


多くの人々がテレビを見るより多くのスポンサーが付く莫大な額で放映権をとる


よって影響力が強くなり開催時期に対しても他のイベントと重ならない時期を主張する権限を得る




これを止めるには我々テレビを視聴する側が


テレビなんて見ない。
オリンピックのスポンサーに付くような企業の商品は買わない。


とまでしないとなくならないのか?


実に世知辛い世の中である。


世のほとんどの人々がクーラーの効いた涼しい部屋でオリンピック観戦でき、その感動物語を生んでいるアスリートたちは酷暑の中最大限のパフォーマンスを要求されるこの状況に私自身も加担している事を自覚したい。




昨日投稿した佐野末四郎さんの言う通り、お金は人をダメにしますね。

誰のためのオリンピックなのでしょうか。

2016年9月1日木曜日

職人

TBSラジオで毎週土曜13時から放送している「久米宏のラジオなんですけど」
この番組の中で「今週のスポットライト」と言うコーナーがあり各界の著名人が出演する。


7月9日に船大工の佐野末四郎さんが出演した。


佐野末四郎さんは200年続く船大工の九代目。この技術を生かし木製の自転車
マホガニーバイクを作って海外のショーでも高い評価を得ているという方


この放送で私自身心に残った佐野末四郎さんの名言をしるしておく。

名言1:道具とは人間の力を増幅するものが道具

DIY好きの私にとって道具は切っても切れない存在ですがこの様な事を考えて使った事はなかった。(実に恥ずかしい)放送では「自転車をこぐペダルへかかる人間の力が100%として普通の自転車の設計では実際摩擦等のロスがあるため99%に近づけようと設計するが、それは道具としておかしい。私は105%にしましょう」と語っていた。
仰る通りドライバーひとつとってみても人間の手だけで緩められないネジもドライバーを使えば簡単に緩める事ができる。もちろん自転車の場合速さだけで考えれば自分で走るより早く走れる事は間違えないが、その時ペダルをこぐ力がクランク→ギヤ→チェーン→ギヤ→車輪へと無駄なく、むしろ増幅させるべきと考え所に職人の意地がうかがえる。ドライバーで言えば柄のグリップ感を良くして手のひらに疲れを感じさせない様なほど良い柔らかさであったり表面の凹凸であったりするところでしょうか。(凡人の私にはこの様な事しか思いつかない。)いずれにしても人間に優しい道具に仕上げる心意気は見習いたい。


名言2:自分の技術を金の厚みで判断されたくない。

とかく高値で売りたくなる己の技術、誰でも「今の給料の倍払うからうちに来ない」と誘われれば心が揺らぐ、しかしそれは守るものが無いからだと思う。守るものが無い技術 なんて薄っぺらいんだろう。だから金の厚みを求めるのだろうか・・・


名言3:不自由なく食う分だけの稼ぎがあればいい。それ以上のお金は必要ない。

いわゆる「宵越しの銭は持たない」というやつ
放送の中では「金は無くても困るが、ありすぎるのも良くない。あると気が大きくなる。」といっている。
金なんていくらあってもありすぎるなんて思えない私はまだまだなんでしょうか?
ただ全く判らないと言う事もなく、確かに世の中金があれば何でもできる。
しかし「この何でも」が一番怖い。